こんにちは、ミキマネです(^^♪
プロ野球選手として西武ライオンズなどで活躍された永射保さんが死去されました。
死因はがんで、享年は63歳でした。
心よりお悔やみ申し上げます。
今年の2月にNHK BS1で放送された『球辞苑』「左殺し」の回で元気な姿で出演していただけに、急な訃報でびっくりしています。
プロ野球で例のない左投手のアンダースローに限りなく近い左サイドハンドのピッチャーだったんですよね!
まさか病気を患われていたとは知りませんでした・・・。
今回は永射保さんの経歴やプロフィールを作成しました。
・左打者に対する極意とは?
・結婚した妻や子供は?
・経営していたスナック「サウスポー」はどこにある?
こういったことを中心に調べてまとめましたのでごゆっくりご覧ください。
永射保のプロフィール
名前:永射 保(ながい たもつ)
生年月日:1953年10月3日~2017年6月24日(享年63歳)
出身地:鹿児島県
身長/体重:172cm/74kg
出身高校:指宿市立指宿商業高等学校卒業
プロ入り:1971年ドラフト3位
球団歴:広島東洋カープ (1972 - 1973)
→太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズ、西武ライオンズ (1974 - 1986)
→横浜大洋ホエールズ (1987 - 1988)
→福岡ダイエーホークス (1989 - 1990)
経歴
指宿商業高校時代は甲子園出場経験なし。
1971年にドラフト3位で広島東洋カープに入団。
1972年4月4日にプロ初登板を果たす。
1974年に交換トレードで太平洋クラブライオンズ(現・西武ライオンズ)に移籍。
1976年より一軍に定着し、77年には9勝を挙げ、オールスターゲームに選ばれた。
その後、リリーフや谷間の先発として活躍し、1982年、1983年、1985年の球団の優勝に貢献。
1987年に交換トレードで横浜大洋ホエールズに移籍。
1989年には福岡ダイエーホークスに移籍し、1990年に現役を引退。
歴代3位となる566試合のリリーフ登板、年間リーグ最多登板試合を4回記録。
現役引退後は福岡県でスナックを経営する傍ら、プロ野球マスターズリーグ「福岡ドンタクズ」の選手としてもプレー。
また、リトルリーグ「小郡リトルシニア」の監督を務めたり、冠ラジオ番組をもつなど幅広く活躍。
佐賀県の運送会社「株式会社大運」の顧問も務めていた。
2017年6月24日、がんのため死去。
主な成績
左のワンポイントリリーフとして長年活躍された永射保さん。
プロ野球生活19年で、通算606試合に登板し、44勝37敗21セーブという成績を残されました。
特に1981年は61試合登板で防御率3.14、WHIP0.98という素晴らしい成績を残されていますね!
意外だったのは若いころは先発としても活躍されており、自身最多の9勝を挙げられた1977年はなんと199.2回というイニングを投げられています。
昔の時代だったとはいえ、現在ではよっぽどエースでないとなかなか投げさせてもらえないイニングですよねww
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永射保の左殺しの極意とは?
左のサイドスローとクロスステップから絶対的な左キラーとして君臨した永射保さん。
過去に球辞苑に出演した際、左打者に対する対戦の仕方について熱く語っておられました。
大切なのは「ローリング」。
最初はオーバースローで投げるように見せかけ、途中からアンダースローのようなフォームに変化させることで打者の目線を上下に動かし、相手を幻惑させる技とのこと。
さらに、踏み出す右足を、地面につけるところでフェイントを入れ、さらに前へ踏み出すことで打者のタイミングを外していたそうです。
普通に投げるだけではプロの打者を抑えられないことから、永射保さんが研究を重ね、独自に編み出した技術ですね!
誰でもマネできる代物ではないと思います。
過去に対戦した左打者でいえば、これまでプロ野球の通算最高打率を残している(4000打数以上で.320)レロン・リーに対しては、111打数17安打 被打率.153。
あまりの対戦成績の悪さにレロン・リーは本来とは逆の右打席に立ったこともあるほどだったそうですww
結婚してる?子供はいるの?
永井保さんは累理子さんという女性とご結婚されています。
今回の葬式の喪主も妻・累理子さんが務めるとのこと。
子供がいたかについてはわかりませんでした。
経営していたスナック「サウスポー」はどこ?
永射保さんは福岡県小郡市の西鉄小郡駅前でスナック「サウスポー」を経営していました。
小郡市近辺の方だけでなく、遠方から来られる方も多い人気店のようです。
女性キャストの質がいいとの口コミもww
また過去には福岡県内に居酒屋「野球狂ながい」を経営していたこともあったようです。
病気だったの?
今回死因ががんであったことが発表されました。
2017年2月にNHK BS1『球辞苑』に出演されたときは、元気に身体を使って自身の投球フォームの解説を行っていました。
とはいえ、若干しゃべりに心もとなさがあった気がしたため、このころから病気を患われていたのかもしれませんね。
居酒屋やスナックを経営するするくらいですから、お酒が大好きだったのでしょうから肝臓系でしょうか?
最後に
63歳で亡くなるというのは若すぎます。
もっと子供たちに野球を教えてあげてほしかったですね。
左のワンポイントリリーフの先駆けとして活躍された永射保さんのご冥福をお祈りいたします。