どうも、ミキマネです!
男子バレー残念でしたね( ;∀;)
日本はオーストラリアに敗れ1勝4敗となり、リオ五輪の夢が消滅しました。
日本バレーボール協会の小田勝美男子強化委員長は辞任の意向を示しています。
決して小田勝美さんだけの責任ではないと思いますが残念でなりません。
今回は元モントリオール五輪日本代表の小田勝美さんがどのような人物か調べてみましたのでご覧ください。
小田勝美のプロフィール
◎名前:小田 勝美(おだ かつみ)
◎生年月日:1952年5月6日(64歳)
◎出身地:兵庫県春日町(現 丹波市)
◎身長/体重:193cm/85kg
◎学歴:関西鉄道学園卒
◎職業:元バレーボール選手(センター)、指導者
◎家族:5人(嫁、長男、次男、長女)
経歴
中学でバレーを始める。
1971年 新日鐵堺製鐵所に入社しバレー部に入部。
1973年からの新日鐵の日本リーグ4連覇、78年からの3連覇に貢献する。
1976年のモントリオール五輪に出場(4位)
1984年 結婚。
2000年 堺ブレイザーズを立ち上げる。
2007年にVリーグ栄誉賞を受賞。
株式会社ブレイザーズスポーツクラブ常務取締役、堺ブレイザーズ部長、Vリーグ機構理事、日本オリンピック委員会ナショナルコーチなどを歴任し、現在は男子強化委員長を務める。
それでは次に小田勝美さんのエピソードを調べましたのでご覧ください。
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父親から勘当
元々、高校には行かず関西鉄道学園に職業訓練に行っていた小田勝美さんは、父親に新日鐵入社を大反対されたそうです。
しかし中村祐造(ミュンヘン五輪代表主将)の熱心な誘いもあり、新日鐵堺でバレーを始めた小田さんは父親に勘当されてしまったそうです。(のちに和解)
プレースタイル
193cmの高い身長と100cmを越すジャンプ力を生かし、センタープレーヤーとして活躍。
しかし身体が細かったため、『常に鉄アレイを持ち歩き、バスの中でもつま先立ちをする』というトレーニングを欠かさず続けたそうです。
元全日本で監督も務めた当時のチームメイトの田中幹保さんは小田さんを努力の人とたたえています。
新日鐵から堺ブレイザーズへ
バブル崩壊後、新日鐵バレー部が廃部危機に陥ったとき、小田さんたちが尽力し、2000年に堺ブレイザーズへと変貌させます。
堺ブレイザーズはこれまでの企業スポーツではなく、株式会社形式を取り入れ、クラブとして運営しています。
(現状、バレーボールでこの方式は堺ブレイザーズと女子の岡山シーガルスの2つだけ)
小田さんたちはJリーグのサッカークラブからヒントを得て、地域密着型のクラブづくりを実現しました。
今でもVリーグで優勝争いを続けられ、健全なクラブ運営ができているのは、小田さんたちのおかげだったのです。
まとめ
今回、男子日本代表は石川選手や柳田選手など若手が台頭していたのにオリンピック出場は叶いませんでしたね。
強化委員長の小田さんが責任を取って辞任したからといって、すぐに解決できる問題ではないので、根気強く日本代表強化に努めてほしいですね。
最後までご覧いただきありがとうございました。